さいごにわらっちゃうーのはあたしのはーずー

本日から職場復帰です。このままなし崩しに家事手伝いになってしまうのか…と内心怯えていたのですこしほっとしつつ。いや、まだ父の意識は戻らないんですけど、母がずいぶん落ち着いたので私が四六時中一緒にいなくても大丈夫になってきた。
いや〜……年が明けた気がしないな。でも箱根も高校サッカーも終わっちゃった。早く野球はじまれー


1/3 早朝父右手の異常を訴える。7時救急車到着。隊員と冷静にしゃべっていたのであまり心配していなかった(当日の↓日記見るとよくわかりますね)昼頃召集がかかり病院へ。ぶっちゃけ命の危機ですと言われる。ICUの待合室で会社の幹部の人たちと葬儀の話とかをする。やっぱ密葬ですかね…みたいな。そのまま夜になってしまったので近隣のいいホテルを二部屋押さえて私母弟、叔父一家でチェックイン。私が風呂に入っている間に病院から電話。緊急手術ですってー。そのまま朝。手術は成功。専務が「ご家族のかたですか?」と訊かれて「いえ私は番頭みたいなものです」と答えていたのをやたら覚えている。「救命手術としては完全に成功しました。ただすぐに回復させる手術じゃありませんよ」と言われる。この言葉の本来の意味をこのときは誰も深く考えていなかったのだった。とりあえず一週間もすれば目覚めるんだと思ってた。術後の父の耳元で「復路駒大勝ったよ!」と言ったら左足が跳ねた。ホテルに戻ってチェックアウトまで泥のように眠る。
1/4 ICU面会時間終了まで病院そして帰宅。母が一人で眠れないというので私は父のベッドで寝る。
1/5〜8 面会時間は病院、そして自宅の往復。家族の中で明らかに私だけ食欲旺盛で眠りも深い。図太さを発揮。
1/9 一般病棟に移る。喜んだのもつかのま担当医から「脳の損傷が激しいので現時点では目が覚める確率ほぼゼロ」(なので今後はリハビリ病院ではなく慢性期病院を探してください)と言われる。母ちょっと取り乱す。弟は無言。私はしばらく肝が冷えたまま固まってたけど、意外とすぐに立ち直った。えーだってあの人がこんなかっこ悪い姿晒したまま死ぬわけないじゃん、とごく自然に思っている。母精神的に不安定。一人でお風呂に入れないというので一緒に入る。うちの風呂無駄にデカくてよかった。
1/10 母あいかわらず不安定なのでパッチフラワーレメディを買ってくる。紹興酒みたいな味ですねこれ。
1/11 母がかなり復帰してきた。個室病棟に移る。古い旅館みたいなすごく広い部屋で日当たりがいい。父には延々好きだったライブのDVDやCDを聴かせてみる。
1/12〜15 父が頻繁に左手指を動かし、時々目をぱちりと開けるようになった。えっこれ見えてるんじゃね?目あってるんじゃね?というわけで「医者はつねに最悪のことしか言わない」を合言葉に容態が完全に落ち着くのを待っている状態です。自分でつばを飲み込む作業ができない→たんが出る→肺に入って肺炎、が今こわい。
とにかくこの状況になって一番痛感したのは、家族以外の人たちの協力のありがたさです。ひいては父の人望の厚さということなんですが、いろんな人が心配して手助けしてくれる。本当にありがたいことです。ありがとうございます。第三者の存在がとてもありがたいです。私個人としても、ただメールや電話で全然関係ない楽しい話を聞かせてくれる人がいるだけで、心の負担がまったく違うなあ…と思っています。それにしたってお前は(こんな状況なのに)ずいぶん元気だなと言われますけど、元気ないよりいいじゃなーい。
私や弟と違って母は生活のほぼすべてを父と共有し依存してきたので、父という存在がなくなると何をしたらいいのかわからない、というのが強いらしく、やっぱりちょっと不安定なところがあります。でもかなり復調してきたかな。「さくらだどーりくんのまね!」とか言ってすたた、と走って足広げて立ってポーズ決めたりするくらいには元気ですよ。…それかなり元気なんじゃない?(空元気ともいいます)弟はあんまり頼りにならないのであんまり頼りにしないことにしました。この生活の中で必然的にもっと図太くなってほしいものです。おまえは繊細すぎる。


結局は最後に笑っちゃうのはあたしのはずーということになるんじゃない?なるよね!ということで、楽観もしてないけど悲観もしないよ!やれる範囲でやれることするよ!くるしまないよ!なので父はとっとと目覚めてくださいほんと。そしてリハビリ病院に転院しちゃおうぜ!